みなさま、本当に突然ですが夫婦の会話はありますでしょうか。うちはほとんどありません。
って言うよりも、あっちはなんか叫んでいるんですが私の福耳が面白いほど聴き取りません。
でも、これではいけない。いや、このままでは生きていけない。私はそう思いました。
なぜならば、この家の名義は私ですがその下の土地の名義が義理のお父さんなんです。
だから、せめてクリスマス・イヴくらいは、溜まったお話でも聴いてやろうかと思いました。
そして、記念すべき第17回目の砂金の人は、杉山弘道さんちに住んでいる杉山英美さんです。
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「笑え!おかしくなくても笑えッ!」と、
やさしく8回ほど怒鳴ったら泣きました。
これだから素人は困るのよね。
泣き終えた後に撮影したので、
若干、イチモツ持っていそうな感じです。
でも、イチモツならすっごくマシな方で、
イップク盛られたりしたらたまりません。
そう、私は出されたら食べなきゃならん。
私の身の回りの丙午生まれの女性は、
みんな気が強くてロクな奴はおらん。
そして、ちょっといろいろと訊きました。
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ま、こう言うとみんな引くんですが、知り合ってから半年で結婚したので、
ほとんど嫁さんのことは知りません。基本的には自分以外に興味はないし。
だから、好きな食べ物も好きな音楽も好きな俳優もまったく知りません。
しかし、嫌いな食べ物は知っています。いざとなったら武器になります。
そして、夫である私でさえも知らなかった過去のお話を切々と語っていただきました。
12月24日(日)に、岐阜県岐阜市祈年町の
抵当権付のご自宅でお話を伺いました。

住宅ローンがあと21年も残っているんだ。だから、最低でもあと21年間は、
ズッと住民放送をし続けないといけません。どう考えても私の体が持ちません。
私は「なんでクリスマス・イヴにお前の話を聴かなきゃいかんのだ」と言うと、
嫁は「じゃあ、だれの話だったら喜んで聴くのよ、え!」と亭主を脅しました。
そして、取材だというのに10分間ほど沈黙が続いてしまいました。いけない。
このままだと【砂金の人々】のアップに間に合わない。最悪
あいつで行こうか。
しかし、それだけは絶対に回避しなければとなんとか頑張りました。
「じゃ、幼いときの記憶をザッ〜とたらいにぶちまけろ」と言うと、
笑って「どこにたらいがあるの?」とふざけたことを抜かしました。
世の中で3人だけ斬ってもいいと言われたらきっと今、斬ってます。
残りの2人のことは訊かないでくれ。
生まれる前から実家はパン屋でした。
おじいちゃんの代からパン屋でした。
そして、今でも義父はパン職人です。
歩いて10歩の実家の窯で焼くので、
バターの芳醇な香りが漂ってきます。
それだけでもご飯が2杯食べれます。
本当にいい環境で過ごしています。
だから、食費が安く抑えられます。
昔、多いときには従業員が5人ほど
2階に住み込んで働いていたんです。
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そう、パン屋の朝はモーレツに早い!って言うか、午前3時から働くのでまだ夜です。
英美さんが小っちゃな頃から両親とも必死に働いていました。朝から晩まで毎日です。
だから、晩ご飯を食べるときは近くの大衆食堂に2人の弟と仲良く歩いて行きました。
6歳から中学校に入る7年間、近くの大衆食堂に顔パスで入ってはツケで食べました。
しかし、私がこれを書いているときに右隣の英美さんは「これじゃあ、すゑちゃんが、
まったくなにもしてないみたいじゃない」と涙目でPCの画面を見ながら言いました。
「私が夕方の5時を過ぎても帰ってこないとすゑちゃんは必ず校門の前に立ってたの」
そう言いながら泣き出しました。まるで私がイジメているかのような印象を与えます。
あ、申し遅れましたが、すゑちゃんというのはとっても体格のいい英美さんの母です。

日頃、両親は構ってやれないせいもあって欲しいものならなんでも買ってやりました。
3歳からはピアノ、小1では習字、小2では珠算、小5では華道教室に通わせました。
本当に愛されていました。でも、なに一つとして満足に身についたものはありません。
実家にあったピアノも私が「邪魔じゃない?」と言って随分と前に捨てちゃいました。
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そして、英美さんには2人の可愛い弟がいました。
しかし、英美さんが小4のときに長男の方の弟は、
不慮の事故で幼い生命を亡くしてしまったんです。
自宅のすぐ近くを走る名鉄電車に飛ばされました。
だから、遮断機のない踏切の近くを歩いていたら、
すぐ横を通った名鉄電車の風圧で飛ばされました。
そして、残念なことに頭部を打ってしまいました。
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私は弟の一人が小さい頃に亡くなってしまったことを知ってはいましたが、
電車にはねられたものだと勝手に思い込んでいました。初めて知りました。
当然、御仏壇に手を合わせたことはありますが詳しくは訊きませんでした。
電車の事故だと知ってはいましたので触れちゃいけないと思っていました。
英美さんは地元の中学校に通い、
歩いて数分の高校に通いました。
本当に恵まれたいい学生生活でした。
友人もとっても多くて賑やかでした。
のほほんとした穏やかな性格のため、
外敵のいないマングースのようです。
私と同じようにグレることもなく、
毎日をボーっと過ごしていました。
でも、あるとき急に思い立ちました。
あ、幼稚園の先生になろう!ってね。
■どうか、ゆっくりとご覧下さい→
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あっと言う間に歳月は流れると、英美さんは短大の幼児教育学部に入りました。
きっと幼児を教育する学部です。子どもが大好きだったので短大を卒業すると、
幼稚園の教諭になりました。幼稚園が教諭で保育園が保母(現在は保育士)です。
とっても毎日が楽しかった。意地の悪い先輩もたくさんいましたが慣れました。
1990年の8月。福井県の水晶浜まで弘道さんと一緒に海水浴に行きました。
とってもやさしくて見るからに紳士的な仕事を大切にするサラリーマンでした。
1991年の4月。小さい頃からの夢だったサラリーマンのお嫁さんになって、
極普通の生活を始めました。両親が自営だったのでスーツ姿に憧れていました。
それから12年間、どこにでもあるような一般的な家庭でした。娘が生まれて、
また娘が生まれて、とても贅沢な暮らしとは言えないまでも幸せな生活でした。

「なんで過去形なのよ?」と私は言いました。
「は?」と英美さんは眉間に皺を寄せました。
だって、英美さんは家族のために美味しいご飯を作って洗濯をするだけの生活から、
現在では確定申告書から絵本まで作らされる元の自営の環境に戻ってしまいました。
「泣くな!どうせ永谷園じゃないか。洗濯機にアリエールを入れるだけじゃないか」
私は本来あるべき姿を見つめながら生きていくという労働の美を懇々と諭しました。
でも、怖いので心の中でだけど。だから、黙って目で訴えました。
本当は今でもサラリーマンを辞めて申し訳ないと思っております。
この場をお借りしてお詫び申し上げます。誠に以ってすびばせん。
すると英美さんは「昔、幼稚園で教えた生徒が
楽天日記に書き込んでくれたの」と、
普段ではまったく見せない笑顔で本当に嬉しそうに微笑みました。本の一瞬だけど。
仲のいい同級生たちは「英美にはぴったりの仕事じゃない!」と言うと英美さんは、
「そう!天職なの!」と自慢げに返しています。でも、夫は天職を否定しています。
食うために精一杯お金を稼ぐ人は天職ではいけません。
お金を稼ぐためには天職ではなく適職しかありません。
【砂漠に水】
第876滴 〜天職と適職 より抜粋
「適職として働くんだ!」とここまで出そうになりますが一切、出ません。
たしかに家庭を守って祈年町2丁目の人たちとふれ合うことも大切ですが、
まだ見ぬ多くの人たちと繋がり合うこともきっと大切なことだと思います。
黙っていれば、ここで死ぬのを待つだけです。
動いてみれば、嬉しい出会いが必ずあります。
英美さんは「うちには娘が2人いるから将来は3人で楽しくやっていけるわ」と、
西の窓辺に飾ってある淡い緑色のポトスを眺めながら呟きました。ふと考えると、
彼女たちの将来の計画には夫であり父親であるこの私が入る余地はないようです。
絵本を作ることは大好きです。でも、それは全国の人たちと繋がり合う手段です。
だから、目的ではありません。自分にできることで多くの人たちと繋がり合って、
そのご縁を大切に紡いでいきたいと思っています。そして、
それを娘たちにも受け継いでもらえたらとっても幸せです。
朝から晩まで一生懸命に働く両親の背中を見て育ちました。そして今では、
朝から晩までそれなりに働く夫の無精髭を見てひっそりと暮らしています。
でも、こうしてまだ見ぬ多くの人たちと一本の線とはいえ繋がり合える幸せを、
心から嬉しく思い、本当にありがたいものだと深く感謝をしています。そして、
自分にできることで恩返しをしたいと願っています。だから、鶴の恩返しです。
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精神年齢がまだすみれ2組くらいの英美さんは、
“自分のできることだけできっと貢献できるわ”
そう言うと、さらに続けて言いました。
“だから、今まで身につけた全部を出し切るの、
まだ見ぬ多くの人たちと繋がり合うためにね”
ってね。
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